

I
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ドストエフスキーの肖像画 |
「貧しき人々」後のドストエフスキーは、その作品群によって作家としての評判を失墜させつつ、密かに空想的社会主義サークルに加入した。空想的社会主義とは、マルクスらの共産主義以前に見られた「科学的理論付けがまだ弱い社会主義思想」のこと。いかなるイデオロギーも弾圧していたらしい当時の帝政ロシアの官憲は、ついにドストエフスキーら政治サークルのメンバーを逮捕した。ドストエフスキーには死刑判決が下された。そして執行直前に、特赦によるシベリア流刑への減刑が言い渡された。
暗く長い囚人時代、彼は聖書に触れている。
5年後、ドストエフスキーはシベリアから帰ってくると、ふたたび小説を書き始めた。
まず長編「死の家の記録」(1860) で、暗鬱で地味でリアリスティックにシベリア流刑の日々を描いた。
次に中編「地下室の手記」(1864) で、中年官吏が家にひきこもって脳内で理屈と言葉をこね回し続ける物語を記して、ドストエフスキーの思想表現、「新しい世代」の人の反社会的絶望、饒舌な言葉を駆使した悪夢のような精神病理学を開花させた。
そして、ドストエフスキーの名を世界文学史に残させた長編「罪と罰」(1866) が生まれる。主題も文学史上ほとんど空前といっていいほど深く、物語としても大作で、描写は冴え渡ってたびたび散文詩の域に達して、登場人物の造形もバルザックの全盛期とゴーゴリの全盛期を重ね合わせたかというほどだ。これが、その後出していく「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」といった傑作長編群の出発点となった。
II
「罪と罰」は、主人公の青年ロージャ・ラスコーリニコフがお金に困って質屋の老婆を斧で殺す話である。
ロージャは、老婆を殺すか殺すまいか悩み、朦朧として町をさまよっていた。そして、ふっと外で昼寝をして、次のような悪夢を見る──
夢の中で、ロージャはまだ子どもだった。父親と一緒に外にいた。酔っ払いが自分の飼い馬を駄馬と罵っていじめていた。周りも囃し立てた。誰かがやりすぎだと言うと、酔っ払いは自分の馬だから何をしてもいいと言い返した。幼いロージャはそのひどい光景を見て父親に泣きついた。父親は「悪ふざけをしているんだ、行こう」と慰めた。酔っ払いと群衆はいじめ抜いて、ついに馬を死なせた。
ロージャはこの悪夢から目を覚ますと、とても人殺しなんてできないと思い直しながら、家に帰る。その帰途、ロージャは偶然とある会話を小耳に挟む。老婆の妹がちょうど明日の晩、用事があって家におらず、老婆一人きりであるということを示す会話を。ロージャはもう何も考えられなくなって、実際に翌晩、老婆を殺す。人間の人生なんてそんなものだ。運命は、人を容易に本物の悪夢へ引き下ろす。ロージャは悪人だから殺人ができたのか? だが、あんな弱く優しい心を持った悪夢を見てしまう悪人とはなんなのか? 本当の悪人は絶対に犯罪をしない、または、何年もの間犯罪を隠匿する能力がある。皮肉なことに、ロージャは神に見放されたのにも関わらず、これは神の救済についての物語である。
殺人する前に偶然酒場にて、ロージャは、酔っ払った中年官吏マルメラードフと出会って話をしている。マルメラードフは「貧しい人々」の主人公をどことなく思わせる。貧しくて、お金がないせいで何に対してもへりくだるようになって、絶望からお酒に逃げるようになって、家族を何よりも愛していて大事にしているのに家族の生活費さえ酒代に費やして、お金がなくなると家に戻って妻に怒られて引っ張られながら酩酊で泣き笑いし続けるような、頭のおかしくなったこの男を前に、ロージャは何を思ったかは描写されていない。
そして殺人の後、今度はマルメラードフが馬車にひかれて瀕死の重症を負っているのに遭遇する。ロージャは、自分の犯した殺人行為によって精神を極度に疲弊させてほとんど夢遊病者になっていたが、なぜかこの事故に対して突如活発になって、マルメラードフを本人のアパートまで連れて行き、自分のお金で医者を呼ばせる。
だが、マルメラードフに助かる見込みはなかった。家族は、仕事のために別居していた娘ソーニャを呼びに行く。やって来たソーニャは痩せて小さなブロンドの少女で、父親が仕事もせずお金を酒代に費やしていたから、代わりに家族のために体を売っていた。
マルメラードフは死ぬ。ロージャは葬式代をマルメラードフ家にいくらか施したあと、家に帰る。これが、殺人を犯した罪人のロージャと貧しい家族のために娼婦をしている少女ソーニャの出会いだ。ソーニャは「マグダラのマリア」のような存在なのだが、この容赦ない暗く不幸なだけの世界の中に1人の聖女が描出されている恩寵が分かるだろうか。いや、恩寵というよりも、この恐怖が。のちにロージャは、「ソーニャが運河にも身を投げず、精神病院にも入らず、淫蕩生活にも落ち込まずに、その清い心を保っていられるのは、神への狂信だ」と確信する。敬虔なのではない、狂信である。それでも、この世に神は存在しないとしても、愛深い聖徒は存在するとしたら? 私の人生の希望は、この世界には「罪と罰」のソーニャや「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャがいるだろうということにしかなかった。それが私に対する恩寵だった。
なぜラスコーリニコフは老婆を殺したのか? ラスコーリニコフはソーニャに殺人の動機を告白するのだが、まるで要を得ない。ニーチェ的とも言われる強者・弱者思想をはじめいくつもの動機を説明していて、結局お金に困っているからではないらしい。──「なぜXXしたのか?」知らない、知らない、知らない。ずっと考えてきた、いろいろな理由を思いついてきた。しかしそれで何が聞ききたいのか。分かっている、私が悪いんだ。しかし、悪いことをしたからなんなのだ? 適切な罰を与えて、それでお終いではないのか? なぜこの罰はいつまでも私の影をついてくるのだろうか?
ラスコーリニコフの精神は崩壊したが、崩壊したから人を殺したのでもなく、人を殺したから崩壊したのでもなく、人を殺した罰から崩壊したのである。ユゴーが「レ・ミゼラブル」で「永劫の社会的処罰」と呼んだ主題、トルストイが「アンナ・カレーニナ」で「復讐は我(神)に任せよ、我は仇を返さん」と聖書から引用した主題がここにもある。ロージャの受けた罰は誰の手によるものなのだろう? 社会が、殺人者を捕まえて刑罰を与えることの何が間違っているのか? ロージャが受けた悪夢のような罰を、読者は延々と読まされる。どうすればこの罰から救済されるのか? この長編が畢竟教えてくれることは、どうもならないという絶望だった。
ドストエフスキーの長編はすべて、人間には解決できない人間的絶望が執拗に表現される。ソーニャの精神は理屈ではない、理屈はロージャを救済してくれない。
III
ドストエフスキーの他長編とくらべた「罪と罰」の特殊性の1つは、結末にある。「白痴」の破滅、「悪霊」の混沌などと違って、「罪と罰」の結末は読者に強い説得力を持って光を感じさせる。「白痴」や「悪霊」の救いようのない結末は、ある意味でそれらの作品の失敗でもあると同時に、ある意味で主題の必然的結果でもあった。「罪と罰」の結末の計画の1つに、ロージャを自殺させるというものがあったらしいが、ドストエフスキーは選択しなかった。もし選択していたら、私は「罪と罰」をこれほど好きになれなかっただろう。
人は信じたいものを信じる。私は「罪と罰」の結末を信じて、地下室から出てきた。出て来た外の世界で味わったのは、単純に言えば「白痴」の花瓶割り事件みたいなものだった。何度も心が折れた。なるほど、この罰に救済などないのだ。
「罪と罰」の最後の段落を読んだだろうか。今私たちが気軽に読むと、いかにも大長編のまとまりのいい結語に見える。しかし、ここで課せられた宿題がどれほど重くしんどいものか──。
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返信削除投稿の序文に「僕はこの小説の主人公ラスコーリニコフと同じように人生をあやまった。」
返信削除とありますが、今回の投稿に踏み切られた心境を勝手ながら察しますと、 “結果” と “自己重要感” を手に入れられたのではないでしょうか。
手に入れる過程がどれほどしんどく、孤独であったのか共感することはしません。
当たり前のことですが、どこか特定の居場所でしか呼吸のできない “肉体を伴わない知性” とは違います。
今回の投稿が「結末を信じて」の一つの到達点であり、その過程も含めて肯定することが出来る時がきた。
俺は勝手ながらとても嬉しく思います、珈琲も美味しいんじゃないでしょうか!信じてよかったですなあ(笑)
間違いではないです。
その通りなんですけど、到達したと同時に、ドストエフスキーから新しい課題を与えられたような感じですね。それが、「罪と罰」最後の段落に残された「課せられた宿題」。
削除「罪と罰」の次の長編である「白痴」は、「罪と罰」の結末からの深層的続編であるとされています(物語は全然関連性がないんだけど)。ところが、「白痴」はまったく幸福ではない。深層的続編と考えると、「白痴」の主人公ムイシュキンは、社会に帰還したラスコーリニコフということになりますが、この新しいラスコーリニコフ君はまったく別の形で運命的に破滅する。……「白痴」は難解な作品だとされていて、自分も今はよく分かりません。
自分はまだ平和に生きていますが、ドストエフスキーは「重くしんどい」人生を歩んできたし、「重くしんどい」物語を書いてきた。ドストエフスキーの愛読者としては、彼が与えた課題を考えたいと思っています。というのが、このエントリの最後の数行の意味なのでした。
あろみにかと申します。
返信削除ソーニャのような存在が貴方にとって「外の世界の希望」という表現がなされており、とても興味深いと感じました。私が罪と罰を"自身と重ね合わせて"(…実際に境遇が似ているといいうわけではありませんが)読んでいた時に思ったことですが、ソーニャ以上にラズミーヒンに意識が向いてしまいます。
ドストエフスキーの考えたシナリオやキャラクター性はさておき、主人公であるラスコーリニコフはソーニャという人物に対して良くも悪くも"聖性"を感じています。それは病状や心情、良心等が作用して、時には心の支えとなり、時には嫌悪すべき対象になっています。
ラスコーリニコフは彼女に対して極めて特殊な視点を持っているわけなのですが、友人であるラズミーヒンに対しては友達感覚以上の心理的考察がなされていません。何が言いたいのかと申し上げますと、ラズミーヒンが彼を看病しても、衣類を用意しても、当然のようにラスコーリニコフはそれを受容し、時には煩わしくに感じていたように読み取れます。…私の読んだ限りではですが。
ラスコーリニコフには、何の見返りもないのに自分に良くしてくれる友人がいるわけです。自分をこの上なく愛してくれている家族(ドゥーニャ等)がいるわけです。私の短い人生においては、そこまでしてくれる友人は片手で足りる程度しか居りません。家族に関しても十分過ぎる程自分を愛してくれています。
かなり遠回りな説明だったように思いますが、要するに私にとっての人生の希望はラズミーヒンやドゥーニャにこそ有るように思います。私を愛してくれる人がいるからこそ…更に言えばそれに気づけたからこそ、私は人を愛してそして頑張ることことが出来るのです。
ラスコーリニコフが最後の場面で、他人(ソーニャ)に対しても自身に対しても真摯であったこと、だからこそ私はあのエンディングが大好きです。
駄文散文で、内容が伝わりにくくて申し訳ありません。
それと話は変わりますが、コメント時のナンバー入力(画像の数字入力)は消してくれた方がうれしいです。笑
ドストエフスキーの小説ではあのような家族愛はごく自然な人間への贈り物として描かれていて、そこは実はあまり問題にならなかったと思います。その贈り物をもらっていながら、それとは無関係に苦しんでいたことにラスコーリニコフが抱えていた問題があった。そう読まないと、ソーニャが意味をなさない。
削除ロージャは、自分を赦そうとするソーニャの顔に自分以上の苦しみを見た。そしてソーニャもロージャの顔に同じものを見た。だからロージャとソーニャは支え合って生きていかなきゃいけないような物語になっている。
ただし、この「支え合って生きる」という甘い考えも「白痴」以降では簡単にぶち壊されるんですけどね!