原作はジョージ・R・R・マーティンの「氷と炎の歌 (A Song of Ice and Fire)」。「ゲーム・オブ・スローンズ」とは、原作「氷と炎の歌」の第1章のタイトル "A Game of Thrones"(七王国の玉座)から来ている。といっても「ゲーム・オブ・スローンズ」は「氷と炎の歌」の第1章だけでなく、全章──まだ見ぬ最終章までも含んでいる。


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どういうわけか、ファンタジーというジャンルは、大ヒットするか、まったくヒットしないか、二択が多い。

近代のハイファンタジーは、誰もが知るJ・R・R・トールキンの「指輪物語」(評論社)から始まる。「指輪物語」がどれほど傑作かは、語っても語り切れない。ただ個人的には、ファンタジー RPG の文法を作り上げてしまった「第1部 旅の仲間」と、今持ってしてもその終わりない暗さに比類がない「第2部 二つの塔」のすごみからすれば、「第3部 王の帰還」は凡庸に感じられた。さておき、長らく日本では、「指輪物語」は TRPG および CRPG への間接的影響から一部のオタクと読書家に読まれていただけで、評論社というマイナーな出版社と、瀬田貞二の児童文学風の翻訳のためか(わたしはこの翻訳が好きなのだが)、広く知られることはなかった。「指輪物語」が着目されるにはピーター・ジャクソンの映画「ロード・オブ・ザ・リング」まで待たねばならなかった。
「ロード・オブ・ザ・リング」は基本的に評価が高い。ただ正直いって、わたしは全然面白いと思わなかった。原作ファンとして狭量な目で見てしまっているのかもしれないが。しかし、同じように「氷と炎の歌」のファンであるわたしが「ゲーム・オブ・スローンズ」を面白く観たのだから、やはりそういう話ではない気もする。
ほかにも、なんといってもハリー・ポッターが小説も映画も大ヒットしたのは、知っての通りだ。まあハリー・ポッターの話はどうでもいい。いや、よくできた物語だと思うけどね。

アーシュラ・ル・グウィンの「ゲド戦記」(岩波書店)もファンタジーの傑作とされている。これも日本では宮崎駿の息子宮崎吾朗監督のアニメ映画「ゲド戦記」によって注目されたが、アニメ映画版「ゲド戦記」は原作者から失望され、大変な悪評で終わった。わたしは小説「ゲド戦記」も好きだが、アニメ映画版については予告編を観ただけで観る気をなくしたので観ていない。

ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」(岩波書店)もファンタジーの傑作だ。この小説については、いずれ独立した記事を書きたい気持ちがあるが、それはまた別の話、いつかまた別のときに話すとしよう。「はてしない物語」も「ネバーエンディング・ストーリー」で映画化されたが、これも原作者から批判され、原作改変による毀誉褒貶が激しい。ただ、別物として見れば評価は高いみたいだ。
「指輪物語」「ゲド戦記」「はてしない物語」といった旧来のファンタジーの傑作で共通しているものは少なくとも2つある。1つは高い倫理性、もう1つは暗く長い闇の道を歩き続ける主人公の重く小さな背中である。
トールキンは影響元だった北欧神話やおとぎ話の性質上と本人のカトリックとしての宗教倫理上、エンデはそもそも児童文学者としての性質上、ル・グウィンはフェミニズム的な本人特有の倫理的性質上、それぞれ異なる理由と形で高い倫理性を有していた。その意味では、それはファンタジーに必然的なものでないのだが、ファンタジーの歴史や文脈からすればどうしてもそうなりがちではあった。
もう1つの「暗く長い道を歩く主人公」という面は、一見まるでファンタジーである必要がない。しかし、近現代や未来を舞台した世界で「暗く長い道を歩く者」というのは扱いづらい主題なのだ。「なんで彼は暗く長い道を歩いてるの? 努力すればまともな道を歩けるのにそうしていないなら、本人の怠慢であり選択であるにすぎないし、そうでなければ、社会がまずいので社会の問題だよね」と身も蓋もない目で見られて終わる。本当はそんなことはないはずなのだが、それが近現代(モダニズム)という個人・自由主義の生んだ病魔である(わたしは個人・自由主義を否定しているわけでない。むしろ肯定している。しかしよい思想が病魔を生まないわけではない)。そんな目で見られないためにファンタジーという舞台装置が必要だった。
話を戻すが、倫理性についても同様で、それもまた近現代ではもはや表現できなくなった主題だ。ファンタジーの傑作群と通底するものを持っている点において、小野不由美の「月の影、影の海」は日本のファンタジー小説の傑作の1つだと思う。
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さて、「氷と炎の歌」または「ゲーム・オブ・スローンズ」はといえば、まさに「暗く長い道を歩く主人公たち」の群像劇にほかならない。しかし、倫理性は、まるで、ない。そこがほかのファンタジー傑作群と違うところであり、「氷と炎の歌」の個性だった。誰も彼もが欲望と権力に従って、他者を陥れ他者の血を流させる。「ゲーム・オブ・スローンズ」のセックスとバイオレンスの連続は、一部の人にとっては嫌悪しか感じられないだろうし、一部の人にとっては視聴率のための見世物小屋にすぎないと思うだろう。しかし、徹底して反倫理が描かれることで、わたしはむしろ何が描かれなかったかを感じる。こういう表現もある。ノワール小説の傑作がしばしば、その描写の頂点で「不在の倫理」の影を垣間見るように。
「ゲーム・オブ・スローンズ」は本当に面白かった。不遇の少年ブラントン・スタークが可愛すぎたし、アリア・スタークとサンサ・スタークという対称的な少女姉妹がそれぞれに苦しみ続けながら歩む様はドラマの中のドラマといっていい。悪でもあり善でもある「子鬼」ことティリオン・ラニスターも絶妙にいいキャラクターをしているし、ほかの多くの登場人物も悪を孕んでいるが、その悪と欲望ゆえにほかの悪を喰らいかねないところが面白い。
正直言って、シーズンが進むにつれて役者が年齢を重ねてしまって、ブラントン・スタークが「トーマの心臓」顔負けの美少年から普通の青年になってしまったのは残念だった。アリアとサンサもなんか最初の頃の美少女とは少し違う雰囲気で成長してしまったが、それでもかなり面影は残っている。対して、ブラントンはあまりにも変わりすぎた。まあそれは仕方ない。
おや? と思ったのはシーズン7だった。「指輪物語」の第3部ではないが、話を凡庸にまとめようとしているみたいだった。原作者マーティンだったらこうはしないだろう、と失望するほど安直な展開になった。ドラマがマーティンの書く原作を追い越してシーズンが進んで、マーティンの影響をなかば外れたままストーリーが作られていることが想像された。あくまで想像だけれど。シーズン8は輪にかけてひどかった。ただこれは覚悟していた。遡ればシーズン6もあまり……いや愚痴はやめる。それでも「ゲーム・オブ・スローンズ」は途中までは本当に傑作だった。あのセックスとバイオレンスはわたしの好みに反するのだけれど、そんなもの些末なことと吹き飛ばしてしまう、巨人のパワーがあった。
最終的な感想としては、マーティンちゃんとしてと思うし、せめて原作は傑作のまま終わってほしいと願う。ただ、ちゃんとするというのは簡単だが極めて難しいことなんだと思う。
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