これは、女の子の服が着たい男の子と、男の子の服が着たい女の子の物語。つまり、LGBT の中のいわゆるクロスドレッサー(異性装者)の物語だ。
I
LGBT とは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーの頭文字をとった言葉で、性的少数者の総称である。(追記:当時は LGBT という用語はまだ人口に膾炙していなかったので、一応説明を付けていた)
LGBT 漫画について僕は全然詳しくない。ただ、現在、多くの女性漫画家がボーイズラブ (BL) 漫画を描いていることは周知のことだ。
BL 漫画の代表的な出発点は、竹宮恵子の「風と木の詩」(1976-)と萩尾望都の「トーマの心臓」(1974)とされる。2人は一時期共同生活をしていたほど互いに影響を与え合い同じ空気を吸っていた仲だったため、どちらがの方が先行者かという議論は難しい。
BL 漫画の代表的な出発点は、竹宮恵子の「風と木の詩」(1976-)と萩尾望都の「トーマの心臓」(1974)とされる。2人は一時期共同生活をしていたほど互いに影響を与え合い同じ空気を吸っていた仲だったため、どちらがの方が先行者かという議論は難しい。
彼女たちの作品は、最初期の BL 漫画というレベルを遥かに超えて、人間の心を深く描いて漫画の詩的文学性を獲得した、漫画史に残る傑作だった。以後のすべての少女漫画は、この2作の直接的・間接的影響なしにはほとんど語れない。
若かりし頃のこの2人の女性漫画家の背後には、増山法恵という人物がいて、文学的教養(「車輪の下」「デミアン」のヘッセや「少年愛の美学」の稲垣足穂)を提供していたらしいという逸話はある。しかし、それは2人が少年愛漫画を描いた動機でしかない。なぜ普通の異性恋愛漫画よりも先行して、この2作の少年愛漫画が、内面描写の深さの点でほとんどどんな漫画家も超えられない高い水準に達したのか。
同じ疑問が「放浪息子」にも投げかけられる。
若かりし頃のこの2人の女性漫画家の背後には、増山法恵という人物がいて、文学的教養(「車輪の下」「デミアン」のヘッセや「少年愛の美学」の稲垣足穂)を提供していたらしいという逸話はある。しかし、それは2人が少年愛漫画を描いた動機でしかない。なぜ普通の異性恋愛漫画よりも先行して、この2作の少年愛漫画が、内面描写の深さの点でほとんどどんな漫画家も超えられない高い水準に達したのか。
同じ疑問が「放浪息子」にも投げかけられる。
II
志村貴子の「放浪息子」は2人の主人公からなる。二鳥くんは女の子みたいな男の子で、二鳥くんのお姉ちゃんみたいな女の子の服を着たいと思っている。一方、同級生の高槻さんは男の子みたいな女の子で、男子みたいに男の子の服を着たいと思っている。服だけではない。二鳥くんは声変わりしたくないし、高槻さんは胸が大きくなりたくない。ただし、性的対象は2人とも異性である。
物語は二鳥くんと高槻さんの小学生時代から始まり、中学生時代が中心となる。志村貴子の柔らかいシンプルな絵柄で、暖かいごく普通の家族・学校風景が描かれる。ただ、主人公2人にクロスドレッサー嗜好があるというだけだ。その中に長い髪の千葉さんという「自己中気味の情緒不安定女子」(1巻プロフィールより)が混ざってきて、子どもらしく仲良くなったり仲がこじれたりする人間関係が展開されていく。
そして、これまでの明るい基調にときどきシリアスな暗さが混ざるだけで読者を不安にさせなかったこの物語は、9巻で反転する。クロスドレスを親しい友達にだけ隠していた二鳥くんが、思い立って、女装して学校登校した結果、学校全体と家族からドン引きされる。その重く暗い展開は圧巻だった。何年ぶりか、物語で泣きそうになった。あの少年の姿には見覚えがあった。救えなかった少年、あれ以降事実上死んだまま生きている少年、あれは過去の、過去の自分だ………。
この段階では何もかもが大好きな漫画だったが、11巻くらいからの展開は個人的にいただけなかった。作者はこれほどまでに重いテーマに実直に向き合って描いておきながら、結局のところ何も言っていない。何も解決していない。高校生になって少年から青年に近づいていった主人公たちは脇役と付き合って、互いの道を進み出して、おしまい。最近読んだ別の面白い漫画として、大今良時の「聲の形」も、最終巻では平凡な青春漫画として着地してしまっていた気がする。それはともかく。
それでも「放浪息子」は、LGBT という社会的マイノリティの苦悩と、彼らの自己アイデンティティの尊重とを描いた傑作だった。
III
最初の疑問に戻る。「トーマの心臓」にしても「放浪息子」にしても、なぜ LGBT 漫画なのか。なぜ女性作者たちは、 LGBT の男を描くなどという特異な想像を要求されたのか。……そこに LGBT でなくては表現できないものがあったんだ。たとえば、私たちが社会にさらせない「秘密」のようなものが。
ここで、Web漫画になるがサンノの「アッパーリップス」(参照)という同性愛漫画の傑作を少し参照する。僕はこの漫画も評価する。そして、この作品の前向きな結末に相反して、物語中盤では重要な(と同時に平凡な)暗い真実が披露される:
「まともじゃない。だから色んな所がゆがんできてるんだ!」これは、異性愛者の主人公マドカ(女)が、同性愛者のモモ(女)と付き合うことになったものの上手くいかなくて、辿り着いた台詞だ。「まとも」というのは、社会が線引きしたものだ。社会の定義によって、アブノーマルな人間はみんな歪んだ人生を余儀なくされる。マイノリティというだけでまともでなく歪まされる、といえば人権や平等を訴える人々には許しがたいだろうが、許す許さないと無関係に、当事者にとってみれば、それはただの事実として現れる。LGBT に限らずその悪夢を知る者にとって、「トーマの心臓」は福音になるし「アッパーリップス」には元気づけられるだろう。
「アッパーリップス」、読み終わりました。 性的マイノリティに悩み、苦しみ、傷つく登場人物たちがとても人間らしく感じました。 面白かったです。
返信削除マイノリティが社会(この場合は学校)においてストレートなマスの嫌悪感に脅えながら表面化せず過ごさざる負えない現実、優しく繊細なうえに生じる疲労等は読んでいてとても心苦しく感じました。
そうした登場人物の姿が、“同性愛”というテーマとは関係なく、共感を引き起こされる作品でした。
数年前『ザ・キッズ・アー・オールライト』という“子持ちのゲイ・カップル”映画を観ました。
家族主義とセクシュアリティは別の問題、モラルとセクシュアリティはまったく別のものだという“当たり前”のことを見せてくれるホーム・コメディでした。
異性愛者だからと言って完璧とは限らない「事実」こそ(現に自分が普通だと信じて疑わない奴ほど危ない)、マイノリティが線引きされた世界で生きていくことに苦しむ必要が全くないと思います。
マイノリティ問題が社会的にタブー視されている(黙殺されている)日本においては今のところは表面化しないのも時間の問題だと思います。
ガンダルフ 「わしだってゲイじゃよ。」
わざわざ「アッパーリップス」まで読んでくださって、サンキューです。
削除ガンダルフの話は、映画版「ロード・オブ・ザ・リング」のガンダルフ役のイアン・マッケランのことですね。原作(指輪物語)ファンとしては映画版にはいろいろ不満だったのですが、そんな中でマッケランの老魔法使いは数少ない素晴らしいものでした。彼がビルボとフロドを心配そうに慈しむ表情がよかった。
tnさん、お久しぶりです。
返信削除なんとなく「ゆびさきミルクティー」を思い出しました。
とても面白い文章ありがとうございます。
「泣きそうになる」ではなく、泣いちゃいましょう!
泣くならもっと気持ちよい感動の涙がいいですねえ。「放浪息子」で泣きそうになったのは一番暗いシーンでのことなので。
削除中学一年のときにこの漫画をアニメで知りました。
返信削除ある意味ジャストタイミングでこの作品に出合えてよかったです。
最終巻で二鳥が自慰を含む自伝的な物語を土居に読ませることで、二鳥は自らの肉体の男性性を痛切に自覚し「女の子二なりたい」という気持ちがはっきりしたのだと思います。小中までは、二鳥は「女の子らしいかわいさ」が自分にあるという自負が言葉には出さないにせよあり、それによりかかって「女の子」の姿になれる自分に満足していた面もあると思います。しかし、高校に進み、自らの肉体の男性性を強く自覚(男子校に入ったこともそれに追い打ちをかけたのかもしれません)することにより、かえって「女の子になりたい」という願望がはっきりしたのだと思います。そのような二鳥の願望すら受け入れるパートナーが末広安那なのだと思いました。最終巻ラストの二人のシーンは、そのことが象徴的にあらわれていると思いました。「女の子になりたい」というアイデンティティにかかわる願望を二鳥が高校以後もあきらめずにいられたのは、末広安那のようなパートナーの存在が大きかったと思います。末広安那は中学の頃、女の子になりたいという二鳥の願望を受け止めきれず、一旦別れようとしますが、最終的には二鳥の願望を受け入れます。「女装おじさんとデートするへんなおばさんでいい」とまでいい、「女の子になりたい」という二鳥と一生連れ添う覚悟がほのみえます。身内の姉や同じ悩みをもつ高槻と違い、一度は自己の願望を拒絶された存在に、最終的に自己の願望を受け入れ理解してもらえた。この体験は、二鳥にとってかけがえのない経験だった。社会の「まとも」から逸脱するような願望を抱く少年は、葛藤を経てそれを受け入れてくれる存在に出会って初めて自己の「女の子になりたい」という願望に自信をもてたのだと思います。社会の「まとも」からはずれるかもしれないけど、理解し受け入れてくれた人がそばにいる。それだけで、自信がわいてくると思います。その意味で、この主人公の恋愛は非常に重要な意味を持つと思いました。
蛇足かもしれませんが、土居もその意味で意外に重要な役回りだと感じます。土居は当初(といっても小学生の時ですが)二鳥の願望を奇異に思いひどい仕打ちをします。しかし、中学二年の文化祭の経験を経て、似鳥の願望に理解を示し協力するようになり、前述のような信頼関係を二鳥と築くまでの友人となりました。その意味で、土居は二鳥の成長にかかせない「苦い良薬」だったと思います。
社会の「まとも」に敢然とたちむかって自己をつらぬくには、周りに自分を理解して受け入れてくれる人たちの存在が不可欠だと感じました。